西浦庭園 写真


西浦庭園の解説
 西浦庭園は明治13年(1880)に明治天皇が伊勢への巡幸の途中、西浦家にお泊りになった行在所(あんざいしょ)(天皇行幸の際の仮のすまい)跡です。
 明治天皇による大規模な6回の巡行が、明治5年頃から10年代にかけて明治政府により行なわれました。

 江戸時代、天皇は庶民にほとんど意識されることのない存在でした。明治政府は、明治維新以後、多くの改革を行い、新しい政治体制の確立を進めました。しかし、こうした大きな変革にともない、西南戦争の勃発、自由民権運動の高まり、一揆の増加など、国民の不満も高まっていました。政府は、こうした状況の中で国をまとめるため、天皇の存在を国民に広く知らしめ、天皇を中心とした国づくりを進めようとして、天皇の全国巡幸が行われたのでした。

 明治13年6月29日、明治天皇は、名古屋と大阪で行われる演習に向かう途中に西浦家の離れ座敷にお泊まりになられました。座敷には岐阜提灯を飾り、近郷の優れた陶磁器を並べ、庭にホタルを放って天皇にご覧いただきました。

 この巡幸は、当初中山道を通る予定でしたが、急遽、下街道を通ることとなりました。幕末から西浦家は、当主の西浦圓治のもと、江戸、大阪に店を持ち、広く美濃焼の販売をしていました。当時江戸店の支配人であった熊谷吉兵衛(熊谷東洲)は、石門心学の東京参前舎の舎主となっており、明治天皇の侍従であった山岡鉄舟との交流もありました。西浦家は、商売をする上での規範を心学にもとめ、また江戸で先進的な考え方を学ぶことによって得られる人脈や情報は商売(経営)をする上で役立つと考えていたのではないでしょうか。心学を通して得たこうした人脈を通じて西浦家が巡幸の際、下街道を通るよう政府に働きかけたのかもしれません。

 この巡幸を期に下街道が整備され、木製の多治見橋が架けられました。この時始めて多治見村長瀬村が立派な恒久橋によりつながり、多治見の町が大きく発展するきっかけとなりました。また、この行幸に先立ち下見のため多治見を訪れた山岡鉄舟は、明治初年の神仏分離令をきっかけに起きた廃仏毀釈による永保寺の荒廃を嘆き、復興を指示しました。翌14年に可児、土岐両郡の寺院の懇願により潭海玄昌が僧堂を再興しました。このようにこの巡幸は多治見市の産業や文化の発展に大きな影響を与える出来事でした。

 お泊りになった西浦家の離れ座敷は、大正四年に京都の宝篋院(楠木正成、正行
(まさつら)親子の菩提寺) に移築されてしまいましたが、大正時代末からこの行在所跡の保存運動が起こり、聖跡保存会が設立されました。多治見町が土地を購入、土塀の修築を行い、保存会により、茶道松尾流の家元の指導による池庭の整備、立派な東郷平八郎の筆になる大きな石柱等の建立がされました。昭和11年(1936)一月には石碑の除幕式が行なわれ、現在の西浦庭園の姿となりました。

 現在も、西浦庭園保存会のみなさんが管理をしてみえ、美しく整えられています。また、近くには、西浦家の古い土蔵を改築して西浦圓治や熊谷東洲を紹介した石心参禅蔵もあります。

 西浦庭園は、多治見の発展のきっかけとなった明治天皇の巡幸という歴史を通して、多治見の礎を築いた人々の思いを語りかけています。


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